高嶋ちさ子さんの父であり、故・高島忠夫さんの弟である高嶋弘之さん。
実は、あのビートルズの初代ディレクターだったということ。
兄の高島忠夫さんや娘のちさ子さんもプロデュースしたという逸話があります!
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高嶋ちさ子の父親は高嶋弘之!ビートルズの敏腕プロデューサー
高嶋弘之(たかしま ひろゆき) 1934年 生まれ 音楽ディレクター・プロデューサー 高嶋音楽事務所代表
高嶋弘之さんは、もともとは演出家や映画監督になりたかったそう。
神戸高校では演劇部で3年間、芝居漬けの毎日を送っていました。
先輩に後の女優、扇千景(おうぎ・ちかげ)さん(元参院議員)がいたそうですから名門ですね。
さらに早稲田大学・第1文学部では演劇を専攻。
ジェームス・ディーンの映画「エデンの東」を見て映画監督を志したそうですが、松竹の助監督試験に落ちてしまいます。
そんなとき、すでに俳優になっていた兄・高島忠夫さんの紹介で東芝レコード事業部(のちの東芝EMI→EMIミュージック・ジャパン)のディレクター試験を受け、見事合格しています。
入社後は洋楽ディレクターとしてスタート。
1964年ビートルズの初代ディレクターとなりますが、当時はまだ売れていなかったので、最初はどこのラジオ局も相手にしてくれなかったそう。
高嶋さんがあの手この手で売り込み、やっと火がつきました。
ビートルズが来日した際も、日本国内にビートルズブームを生み出し、その後のグループサウンズやJ-POPにも影響を与えています。
日本の現代音楽の系譜を生み出した人物ともいえるスゴイ人物なのです。
高嶋弘之は俳優・高島忠夫もプロデュース?
高島忠夫の芸名も考えた?
そして、実は兄の高島忠夫さんに芸能界入りを勧めたのも、高嶋弘之さんでした。
高島忠夫さんは、背が高くて、当時とても人気があった俳優の佐田啓二さんに似ていたそうです。
そこで、弘之さんが見つけた新聞の新東宝の募集記事を見て応募を勧めたということ。
弘之さんが、芸名のアイデアまで考え、「高嶋」ではなく「高島忠夫」でデビューしてます。
兄弟でルームシェアも!
そして、昭和26年、高島忠夫さんは関西学院大在学中に新東宝のニューフェースとなりスターに!
弘之さんが早稲田大に進学してからは、下北沢で同じ下宿に住んでいたそうです。
忠夫さんを門の前で待つ女学生がいつも5、6人はいて、キャーキャー大騒ぎ。
迷惑がかかるので、そこを出て田園調布の一軒家の2階を借りました。
家賃は月1万5千円。弘之さんが大学を卒業する前まで一緒に暮らしていたといいます。
忠夫さんはジャズが大好きで、いつも一緒に聴いていたそうです。
弟が兄に芸能界入りを勧め、兄が弟の就職先を紹介してくれた。
お互いにその道で成功しています。仲の良い兄弟だったんですね。
高嶋弘之は娘の高嶋ちさ子もプロデュース?
そして、高嶋弘之さんは、言わずと知れた高嶋ちさ子さんのお父さんです。
そう、弘之さんは音楽家としてのちさ子さんもプロデュースしていました。
ちさ子さんがヨーロッパではなく、アメリカのイェールに留学したのも父の勧め。
ビジネスとしてのクラシックはアメリカが本場。現地でスキルを磨き、人脈を広げることができました。
しかし、ちさ子さんがデビューするときは、自分の会社ではなく、あえて他の事務所に預けています。
音楽業界で名が通っている弘之さんが、ちさ子さんに口出ししたくなかったという気持ちからだそうです。
しかしながら、さすがは「敏腕プロデューサー」。
ちさ子さんを売り出すためにあの手この手の秘策を練ったようです。
ピアノとユニットを組んで売り込み、コンサートを企画。
平成8年に東京・銀座のホールで始まった「ギンザ・クラシックス」では、ちさ子さん得意の軽妙なトークを織りまぜ、ヴァイオリンだけでなくさまざまな楽器を使うなど、これまでのおカタいクラシックコンサートのイメージを変えました。
ちさ子さんのさっくばらんな親しみやすい音楽家のイメージは、敏腕プロデューサーの高嶋弘之さんの「作品」でもあるんですね。
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まとめ 高嶋ちさ子の父親はビートルズを世に出した敏腕ディレクター
テレビで大活躍の高嶋ちさ子さんの父親は、業界では名の通った敏腕ディレクターでした。
あのビートルズだけでなく、娘や兄のプロデュースまで!
ちさ子さんの音楽の才能や毒舌ぶりまで、父親譲りのようですね。
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