ダウン症でありながら、「書」の世界で異彩を放ち活躍中の書家・金澤翔子さん。
いまや世界中から注目される金澤翔子さんですが、生まれながらのハンデを乗り越え、書の道を極めるには相当の苦労と努力があったのではないでしょうか?
さらに、その翔子さんを育て上げた母・金澤泰子さんの人生もまた壮絶なのです。
今回は、同じ書家でもある母親の金澤泰子さんの半生にスポットを当ててみました。
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金澤翔子はダウン症を乗り越えて世界に羽ばたく書家に!
金澤翔子さんは、1985年に東京生まれの33歳。新生児期に敗血症にかかり、後にダウン症と診断されました。
母親の影響で、5歳で書道を始め、20歳で開いた初個展が評判を呼び、その後、伊勢神宮や建仁寺を始めとした名だたる神社やお寺への奉納、大河ドラマ「平清盛」の題字など幅広い活躍を続けてきました。
さらにその勢いは国内に留まらず、ニューヨーク、チェコ、シンガポール等で個展を開き、世界中から称賛を集めています。
金澤翔子の母親・泰子は裕福な家庭で育つ
そんな翔子さんの母親・泰子さんは、武士の家系を受け継ぐ千葉の旧家に生まれました。
父は国鉄(現・JR)の勤務、母は慶応大学の医学部(産科)を卒業した、お手伝いさんもいる裕福な家庭。
1960年代には明治大学に進学、文化人が集う「サロン」に通いつめ、寺山修司さん、横尾忠則さん、谷川俊太郎さん、安藤忠雄さん、馬場あき子さん、唐十郎さんなどとの華やかの交遊関係を楽しんでいたそうです。
その後、フランス文学に憧れ、30歳で銀座に文化的なサロンを開きます。当時の文学界、美術界を代表する方々が常連となり、当時、銀座界隈では有名なお店と紹介されたほど。
何一つ不自由ない暮らし。ご本人も「怖いものは何もなかった」と語っています。
金澤泰子はダウン症の翔子と何度もこの世を去ることを…
5歳下のご主人・裕さんとは趣味を通じて知り合いました。
41歳で妊娠。それまで何度も流産を繰り返していたので、安定期に入ったときは本当に嬉しかったそう。
しかし、出産から45日後、翔子さんがダウン症だと判明。
医師からは「知能がなく、一生歩けないかもしれない」と宣告され、背筋が凍るほどのショックを受けました。
それからの5年間、泰子さんは苦しみ続け、母子で命を絶つことばかりを考えていたといいます。
ミルクを薄めて衰弱させられないかと考えたり、坂の上からベビーカーを落とそうと思ったりしたことも。
しかし、翔子さんのダウン症の子ども特有のかわいらしい笑顔を見ると、とてもそんなことはできませんでした。
当時住んでいたマンションの最上階で「地震が起きたら、今度こそベランダから落とそう」と考えたこともありましたが、本当に地震が起きたときには、必死に翔子さんを抱きかかえていました。
そのとき、心の底から翔子さんのことを愛している自分に気づき、ようやく育てていく決心がついたと語っています。
金澤翔子の「涙の般若心境」が生まれた引きこもりの日々
泰子さんもまた書家。小学4年生で書道を始め、結婚を機に書家の柳田泰雲先生に再度師事。
そんな母に影響を受けて、翔子さんも5歳から書道を始めます。
小学校3年生までは普通学級に通うことができた翔子さん。友達にも恵まれ、平和な日々を送っていましたが、また厳しい転機が訪れます。
小学校4年生に進級するタイミングで、「うちでは受け入れられません」と学校から通学を拒否されていまうのです。
それから数カ月間、二人でほとんど家に引きこもり、朝から晩まで般若心経を写経する日々が続きました。
泰子さんは、不安のあまりどうしても翔子さんに厳しくあたってしまうこともあったそうです。
もどかしさから声を荒げ、「こんなことがどうしてできないの」と容赦なく叱りつけたことも。
それでも翔子さんは、涙をこぼしながらも姿勢は崩さず書き続け、1枚書き終えると「ありがとうございました」と母と書への感謝を述べたそう。
実は、翔子さんが10歳のときに書いた般若心経は、「涙の般若心経」と呼ばれ、もっとも人気のある作品のひとつになっています。
当時を振り返り、泰子さんはこう語っています。
「涙の般若心経」がなければ、今の翔子の書の基本、そして、集中力、持続力は培われなかったかもしれません。そう考えると、普通学級への進級を断られたことも必然だったと思えます。
引用元:https://www.wendy-net.com/nw/person/312.html
夫が突然他界!遺志を継いだ金澤翔子20歳の個展がきっかけに
しかし、泰子さんの試練は終わりませんでした。
翔子さんが14歳のとき、大黒柱の夫、裕(ひろし)さんが心臓発作で倒れ、52歳の若さでそのまま他界してしまったのです。
裕さんは貿易会社を経営していましたが、次々と借金の取り立てが現れ、通帳からアッという間にお金が無くなったそうです。
途方に暮れて、再び母娘の2人で、引きこもりの状態に。
そんなとき、思い出したのが誰よりも翔子さんの書道の才能を認めていた裕さんの言葉。
「翔子が20歳になったら個展をやろう。そして、みんなに来てもらい、翔子がダウン症であることを公表しよう」。
そこで、泰子さんは決意します。「結婚はできないかもしれないから、結婚式のつもりで、夫が残したお金を使って最高の展覧会とパーティーをやろう」と。
そして、翔子がさんが20歳になったお祝いに、東京・銀座で個展を開き、帝国ホテルで記念レセプションも開催しました。
この個展がメディアに取り上げられて話題となり、翔子さんは書家として、日本だけでなく世界へ羽ばたくきっかけとなったのです。
数々の困難を母娘で乗り越えてきた泰子さん。「いまが一番幸せ」だと語っていました。
翔子は「みんなにパワーをあげたい」と口癖のように言いますが、翔子を見ていると、パワーとは強さではなく、やさしさであると、つくづく思わされます。
今は、同じ苦しみを持つ母親たちに希望を見せるのが私の役目。講演会にも現物支給みたいにできるだけ翔子を連れていって、「この子を見て。みんな、泣かなくても大丈夫よ」と伝えています。
ここに至るまでいろいろありましたが、70代になった今が一番幸せです。人生に無駄なことはないと言いますが、書道を続けてきたことも、翔子を見ていると、ここに根拠があったんだと思えます。
引用元:https://www.wendy-net.com/nw/person/312.html
金澤泰子さんが歩んできた壮絶人生。翔子さんを支えながら、翔子さんの笑顔にまた支えられてきたのだと思います。
「人生に無駄なことなどない」という言葉に、勇気をいただきました。
まとめ 金澤翔子の母親の壮絶人生!金澤泰子はダウン症の我が子を何度も…
さまざまなメディアでも注目されている、書道家の金澤翔子さん。
翔子さんの笑顔からは想像できませんが、母娘の二人三脚で壮絶な人生を乗り越えてきました。
翔子さんの書からは、力強さと優しさが同時に伝わってきます。金澤翔子さんの今後の活躍がとても楽しみです。